胃ガンから生還して一日でも一年でも長生きする為にハタケと薪作りとゴルフを生活のノルマにしました。
頑固親父にとってゴルフは単なる遊びでは無く健康維持の為の仕事として毎年100回以上のオープンコンペに参加する事にしています。
頑固親父の自己紹介 後編 (正義は必ず勝つ!) 2011~
頑固親父の自己紹介 前編はこちら 頑固親父の自己紹介 中編はこちら
胃ガンから生還して一日でも一年でも長生きする為にハタケと薪作りとゴルフを生活のノルマにしました。
頑固親父にとってゴルフは単なる遊びでは無く健康維持の為の仕事として毎年100回以上のオープンコンペに参加する事にしています。
海 外 旅 行 1985年~
頑固親父が生まれて初めての海外旅行は1985年(昭和60年)1月に国際養鶏の太田さんに誘われ中華人民共和国でした。中国がまだ文化大革命以前の時代に農業研修生を求めてでした。男も女も人民服を着ている時代でした。半月に渡中国からの招待だったのでアチコチ大陸鉄道で移動し持て成しを受けました。
その後は冬にゴルフで毎年タイに行きました。
2011年に突然胃がんの手術ステージ3~4から生還したお陰で親友の修ちゃん夫妻を誘い生まれて初めて“ハワイ”にしかもビジネスで行きました。 2011.11
★2012年11月には北海道で一番世話になった川股夫妻を誘いバンコクに行きました
★2014年1月には秋田に住む長男の家族を誘いバンコクに行きました。
★2015年3月には知人に誘われアメリカ東海岸にも行きました。
70歳過ぎてニューヨークを見てドッテンしました。
大島工場にマンション建設 2018.06
2019(令和元年)ヨークマート リニューアル
悠 々 自 適 の 老 後・・・・
傘下の銀行を含めると支店数800を超えるメガバンクの頭取とツーショットは初代も二代目も成し得なかった事です。
創業100年を超える恩恵で先祖に感謝です。 2019.02
次世代へ 長男が代表取締役社長就任 2022.04
記憶の前後が曖昧になって来たので秋田県で高校の教師の長男が定年退職するまで10年以上有り、それまで代表取締役を続ける自信と気力が薄れ取締役会の議決を得て、長男に教師を退職し実家の4代目を託す事にしました。 2022.04
「お医者さんに成りたい!」一念で国立の医学部を目指し2年間東京の予備校に通っていた孫が不本意ながら私大の医学部に入学しました。
頑固親父はゴルフ三昧とは言え孫の浪人生活を心配をした辛い2年間でした。
医学部は6年間で孫が医者になるまで頑固親父この世に居る保証がありません
2007年に父から実家の後始末を引き受けて15年です。何はともあれ
「祖父と父が汗した正木鉄工所の資産と看板を未来永劫に残す」父の願いを長男に託す事が出来ました。 2022.08
次世代への遺言 正義は必ず勝つ! 2024.07
2007年(頑固親父67歳の時)に父に実家の後始末を依頼され引き受けて15年経ちました。
2011年に父が亡くなると同時に一族から工場跡地(凡そ千坪)を巡る争奪と遺産相続裁判が始まりました。
2013年に遺産相続裁判が始まって11年の歳月があっという間に経ちました。
2011年に父が亡くなって13年! 頑固親父は父の遺言に従って粛々と正義を全うして来ました。
この世に神が居るとしたら必ず正義が勝つと信じて生きて来ました。正義は勝ちます。勝つのです。
このほどその全てが棄却され全てが終わりました。結局悪徳弁護士の食い物にされた11年でした。
「正義は勝ちます!正義は絶対に勝ちます!」これが頑固親父の”遺言”です。
2007年に実家の後始末に呼ばれて15年の歳月を要し父の思い通り祖父の興した会社と資産を未来永劫に残す事が出来ました。
次から次へと相手方悪徳弁護士の餌食になり眠れぬ夜を過ごして来ました。
そんな事を天声薪語に書けず(相手方とその弁護士が頑固親父の動向を毎日読んでいるので)平穏を装っていました。
頑固親父は父の意向(会社を未来永劫に残す)と遺産相続には正々堂々税理士先生の指導に従い正義を貫きました。
11年に及ぶその裁判も昨年秋には全て相手方が棄却され何一つ失う事無く父の遺言通り少なくても頑固親父の孫子の世代までは安堵です。
11年に及ぶ遺産相続裁判が決着しました。長い苦しい11年でした。
結果として”正義”が勝ちました。双方の弁護士と司法書士の勝ちです。
原告も被告も何も得るモノが無い11年の争いでした。
少なくとも頑固親父の孫の世代までは安泰です。その先の事は・・・・・
33歳の時に東京の全てを捨てて北海道に移住して34年後に後始末を引き受けたが父の遺産は何一つ受け取っていません。
頑固親父の財産の全ては北海道に来て得たモノです。父からは今だ一円と言えども頂いていません。
但し実家の後始末の結果想像以上の役員報酬を頂き相続税の為に預金しています。
顧問税理士と銀行の試算だと何とか支払えるまで達したようです。後は次世代です。 2024.06
神の書く絵図面(家内が認知症に・・・) 2024.04
2019年に家内の両膝の関節症が限界で人工関節置換手術をしました。
その頃から急に家内の認知症が進み出しました。
と言う訳で病院の紹介で介護認定を受け”要介護・1”になりディサービスと訪問介護の支援を受けて夫婦二人の生活を続けて来ました。
家内が認知症と認定されても食事の支度は自分の仕事だと思い込み始めるが作れません。
作っている途中に他の物を見るとそっちを遣り出してしまいます。
結局頑固親父が作った方が早いのです。
去年の春先からは頑固親父が朝昼晩と食事の支度をする事になって1年が過ぎました。
最近はパソコンを開けば何でもレシピが出て来ます。
チャーハン・生姜焼き・すし飯・ホイコーロー・パスタ・タマゴサンド・・・・・まだ有るが!
遣って見ると料理も何とかなるものです。必要に縛られ仕方無く始めたが何とかなるものです。
今更料理教室に通う気力は無いが何とかなるものです。
決して楽しい作業とは思わないが台所を奇麗にする事は楽しいと思うようになりました。
基本は”今直ぐやる”です。後でまとめては決してダメです。 流し(シンク)が奇麗が生き甲斐です。
家事全般(支度・片付け・買い物など)家内と二人で行う生活が2年程続きました。
ところが何度言っても忘れてしまい何時しか怒鳴ってしまいそれが高じて膝を叩いていたがテーブルを叩き出します。
結婚以来頑固親父に口答えなどした事が無い家内が反抗するようになり大声の怒鳴り合いの半年一年を過ごしました。
認知症ってのは10分もすると全て忘れて呉れる事だが頑固親父の脳は憶えて居ます。
認知症ってのは本人より介護する方が辛い病気です。
このままでは何時か家内を道連れに・・・・何て思うようになりました。
長男と相談の挙句長男の住む秋田県能代市に手頃が”介護付き有料老人ホーム”に1部屋空きが有り直ぐ申込み家内を能代に送ってしまいました。
結婚以来50数年家事をやってくれた家内に対してたった2年で介護施設に入れてしまいました。
家内に対して申し訳なく居ても立っても居られず自宅に戻るのが辛くなりました。
家内の事はイットキも頭から離れません。
三食の台所がそのまま残っているのが辛いです。
良くもまぁナベとか食器をこんなに沢山集めたものだと今更感心しています。
何れ全てを処分しようと思うが今がその時期では無いようです。
全てをそのままにして居なくなった家内を時々恨んでもいます。
何事も几帳面な家内だったので台所(特にシンクは)だけは家内に負けず磨いています。
洗い物もその都度必ず洗っています。
認知症ってのは厄介な病気(?)です。当人よりも連れ合いが病気になりそうです。
皆さん頑固親父を気遣って色々アドバイスを頂くが傘寿を過ぎた老々介護の経験の無い方ばかりです。
何はともあれ三食だけはキチンと食い規則正しい生活を心掛けています。
2024.07
神の書く絵図面・2(最後は一人・・・・) 2024.07