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頑固親父の自己紹介

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夫婦ツーショット

1941年(昭和16年) 巳年生れの典型的なB型人間・現在満83歳

昭和16年7月東京の下町で産まれる。

その年の12月に太平洋戦争勃発だから戦前の生まれって事になる。

昭和20年3月10日の東京大空襲で(現在の江東区東砂町で)戦火の中母親の気転で親子奇跡的に生き残る。 私3.8才 母親24才(昔の女はスゴイ)。
この日に人生の全ての「運」を使い果たし その後の人生で一度も濡れ手で粟の「運」に恵まれず株も競馬も宝くじも年賀状さえ当たった事が無い。
オット失礼↑の方(頑固親父のイイナリ女房)と巡り会えた事は何よりの”運”でした。 ナ訳で生涯’女’はこの方一人しか知りません。

ホントインデアン嘘ツカナイ!              (2002.06)

   

昭和39年(東京オリンピックの年)東京新宿の工学院大学の建築学科卒業後、長男は実家の跡継ぎがアッタリマエダで父親(超頑固親父)の命令で
『若い時の苦労は銭出して買ってでもスレ!』って!
『若い時にゃぁ他人の飯を食え!』って

経営と忍耐を学ぶ為に室蘭市の造船会社で3年間修行(!)の為北海道に渡る

初日に↑の方に巡り遭いました。

室蘭市に着いたその日に指定された”寮”で出会いビィビィと電気が走りそれ以来一目惚れの片思いが3年続きました。
内気な青年は片思いのまま帰れば一生後悔すると一大決心し、室蘭から東京に戻る際に喫茶店に呼び出し「何時か必ず迎えに来るから!」って思い切って言って見たがその場で返事を貰えず三日後にケンモホロロに断られました。
アントキはホント落ち込んだ。
帰りの青函連絡船から飛び込んじゃおうかと真剣に思いました。

  
当時流行っていた”霧の摩周湖”を聞くと昨日のように当時を思い出されます。
東京に戻ってからも↑の方を忘れられず一生懸命手紙を書いて親友(人名録25参照)の力を借りてようやく「ン!」って言わせました。

実は私の身内は室蘭で”出来てた”って疑っていますがトンデモハップンです。

結婚式の夜まで指一本触ってません!これもほんとインデアン嘘ツカナイ!
今頃になって修行の大切さをシミジミ感じています。    (2002.06)

修行とは生涯を共にする女房を見つける事なり・・・・頑固親父の教訓その1
実は家内の母親はソレハソレは働き者で寮母として3年間世話になりました。
その方の娘ならキット働き者で私は絶対に幸せに成れるって思って居る内にホントに惚れてしまいました・・・・片思いだったけど!

  
家内の母親は天声薪語2009.3.5~6に・・・先人はイイ事言いますねぇ!

ヨメを貰うならオヤ見て貰え!・・・・・・・・・・・頑固親父の教訓その2 
美人は三日で飽きるが ブスは三日で馴れる!・・・・頑固親父の教訓その3

初対面以来家内がブス? そのように思った事ありません・これもホント!                              (2002.06)

現在の家族 2002

二人の息子は内地に巣立ち 妻(頑固親父のイイナリ女房)と犬4匹(キャバリア夫妻とヨークシャテリア夫妻)と高齢者共同住宅~夕日ヶ丘山荘~の10人のお年寄りたち 左からワルコ・ズルケン・チビメル・バカアレ
マキはこれで(1㎡)3日分です。            (2002.06)

 

  

                            2008.06

二人の息子は・・・?

二人の息子は(天声薪語過去ログ2009.08.23と09.06の如く育てたので)自立して、秋田と東京で生活しているがほとんど音信不通。
便りのないのは元気な証というけれど モノには限度ってものが・・・・・・
まあいいか、ガマン、ガマン↓が居るじゃんか!
(5人の写真で家内の後ろに立っているのが”ヨメを貰うなら・・・・の働き者のハハオヤ”です)

鉄工所の3代目のハズが・・・?

 

北海道で3年の修行を終え、実家(東京下町で80年続く)に戻り祖父が興した鉄工所を上場企業にするデッカイ夢を持って働きました。

思えば昭和49年の夏も暑い日が続いていました。

当時は家庭にエアコンなど皆無で夜中も30度超えで熟睡出来ない日の毎日でした。 丸の内の三菱重工ビルが赤軍派に爆破された日の事でした。
そんな日に父と会社経営の些細な事の売り言葉と買い言葉の挙げ句 頭を冷やしに休暇を取り家内の実家に来ました。

  

 

 

千歳空港を降りたときに吸ったヒンヤリした空気に出会い「人生1回ならこの時期この空気を吸って過ごしたい!」と思ってしまいました。
家内の父親に「東京に戻れ!」「一人で戻れないならオレが連れて行く!って説得されたが ”ヒンヤリした空気”が勝り,下町の町工場は所詮町工場で父親の壁を乗り越えられず 家内は母親と鬼千匹に負けて三代目の筈が7年で東京に見切りを付けてその年の秋(昭和49年)に5歳の長男を連れて東京の全てを捨て札幌市に移り住みました。

それから3年間失業転職失業と人生のどん底を味わいました。

冬の除雪は想像以上だが夏の空気が北海道ならではです。
還暦過ぎて父親を乗り越えても還暦を待つ人生なんて真っ平だ!と
「その内頭を下げて戻って来るだろう!」って
「その内頭を下げて迎えに来るだろう!」って親子で意地を張っていたら本当に還暦を過ぎてしまいました。

あれから半世紀弱!今だ東京に帰りたいとは思いません!
さりとて北海道が”終の棲家”とも思いません。
今更北海道を畳んで行く先など無いに決まっているが心底北海道が好きな訳でもありません!

捨てる神あれば拾う神あり3年後に資本金200万の代表取締役になりました。

それからン年!お互い意地を張っているうちに還暦を超えてしまった。
85才になる父親(超頑固親父)は現在でも社長を私の弟に譲らず、

「頑固一徹」現役でピンピンしています。
父親を長生きさせる為に「私は最高の親孝行息子?」と思う事がある。                            (2002.06)

  

ところが2005年(平成17年)元旦に三代目の筈の弟(56歳)が急逝してしまいました。
2007年(平成19年)の5月に突然父親(超頑固親父)から呼び出しが掛かり株主総会の議決を得て急遽3代目を任されました。
『売り家と唐様で書く三代目』 超頑固親父90歳 私66歳です。
『三代続けば末代続く』とも言われています。 あぁ~~あ!
人の運命ってのは絵に描くようには行かないものです。 
三代目の代表取締役と言っても休業した鐵工所の残務整理で一族郎党財産の奪い合いの行司です。

二代目の父親の意向は「祖父と自分が汗したこの地を絶対に手放す事なく未来永劫に正木の名を残せ!」でした。            (2007.06)

現在の仕事は?(晴薪雨読)           2002.06

収入はネンキンでイワユル『サンデー毎日・国家公務員』って奴です                            (2002.06)
ところが75歳を過ぎた2017年に社会保険事務所から一通の手紙が届き厚生年金の支給を打ち切られました。
理由は問答無用で・・・・知らぬ間に安倍内閣が作った法律だそうです。                              2017.09

北海道での実業は       1974年(昭和49年11月)~

昭和49年11月に北海道に移り住だものの 長くて半年最短は2月で会社を辞めて転職・失業の惨めさを知りました。
オイルショックの後で日本の会社が疲弊しそんな時に募集している会社はイイ社員に逃げられた会社が多かったのです。
ナ訳で失業して失業保険給付と次の会社探しに”職安”に通いました。

移住して1年半アッチの会社コッチの会社を渡り歩き最後に辿り着いたのが畜産関係の設備会社でした。
鉄骨技術者募集!」を職安で見つけて紹介され“畜産の施設“は頑固親父には全く未知の世界でした。

何より糞尿の匂いに参りました。 今思えば人生で一番のどん底でした。
しかし実家の”鬼千匹”から解放された家内の明るい笑顔に救われました。
働くところが有れば何でもイイと割り切りました。
失業する侘しさと失業保険を貰う虚しさをイヤと言うほど味わいました。
頭を下げて東京に戻り弟の下で働こうかと何度か思いましたがそれもプライドが有り出来ませんでした。
当時流行っていた荒井由実の”ルージュの伝言いちご白書をもう一度”を聞くと今でも涙が出そうです。 さだまさしの”あまやどり”はどん底の歌です。 

糞尿の匂いが気に成らなくなった頃に会社の代表が失踪してしまいました。
債権者と客先と下請けが別の会社を設置し札幌に来て3年後の昭和52年12月には資本金200万円の会社の代表取締役になっていました。
天の時地の利人の和(天地人)です・・・・頑固親父の教訓その4

誰も見ていなくてもお天道様が見ていたのです・・・・頑固親父の教訓その5

 

北海道に移住後 父と母は何かと一年毎に北海道にゴルフを兼ねて遊びに来ていました。

  

 


   

 

  

 

  

 

実は頑固親父の妹達(小姑・鬼千匹)は父親に”勘当”されたと今でも思い込んでいるがトンデモハップンです。
頑固親父が東京の全て(優柔不断な父親と家内を虐める鬼千匹)に見切りを付けて未知の北海道に移住し ホントいい人生でした。

  

 

 

 

父は3人の娘の家には絶対寝泊まりした事がありません。鬼千匹の婿が大嫌いだそうです。

 

 

 

 

新会社では北海道を走り回って人生で一番充実した15年間でした。

畜産施設専門の会社などそれまで北海道には無かったので1棟建てるとそれを見た同業者から次々と仕事が舞い込んで来ました。

仕入先下請け業者に恵まれました。金の心配など皆無でした。
しかし家内の甲状腺ガンの手術後の介護とバブル経済崩壊の円高の影響で外国の既製品が大量に輸入されて頑固親父は業界に見切りをつけ資材販売に縮小して会社を守りました。

↑のような“施設“を北海道中に200前後施工しました。  (2018.09)

1998年 夕日ヶ丘山荘建設

悠々自適の老後の入口でこれからの生き甲斐として少しでも社会に貢献を考えました。
1998年自宅の向かいの空き地を利用して高齢者の為の共同住宅を家内と相談の上建設しました。
管理人は家内で10室10名総工費4千万円 介護保険も無い時代でした。
夕日ヶ丘山荘のお蔭でマスコミに何度も・・・・
挙句は“夕映え色を共に“と題した1時間のドキュメントも放映されました。
現在は~夕日ヶ丘山荘~のオーナーとして、高齢化社会に少しでもお役に立て、夫婦二人で生きがいを持って生活できる事に充分満足しています。                           (2002.06)

  

 

   
春:薪作りと山菜採りとゴルフと夕日ヶ丘山荘
夏:ハタケ(300坪)とCCと阪神タイガースとゴルフと夕日ヶ丘山荘
秋:薪作りとキノコ採りとゴルフと夕日ヶ丘山荘
冬:二台の薪ストーブの係長(24時間勤務)と夕日ヶ丘山荘
ってバカな事を言ってますがこれでも一応三つの会社のシャッチョゥさんです
                      (天声薪語07.07.26参照)

ゴルフ人生・・・・         1971年(昭和46年 25歳~)

昔:シングル 10年前:ダブル 今:目標89
一時期ゴルフに才能の限界を感じ、草野球に没頭した時もあったが、毎年欠かさないのがバンコックのゴルフツアーです。
此の歳になっても誘ってくれる仲間が有るってのが一番です。勿論ニギリの世界もです。
68歳にしては・・・・・・・って褒められるのです↑。
タイはキャディーが何と言っても可愛いです。所謂カッパエビセンって奴で、日本国内でキャディと→のような写真を撮ったら出入り禁止・除名・セクハラ・・・です。
実はゴルフより・・・・嘘です。 

それにしても美しいスイングですね・冗談抜きで・・・   (2002.06)

しかし2011年胃がんの手術後健康の為にゴルフを日課としてシーズン120回コンペにエントリーするようになりました。 その為には1に練習2に練習です。
お陰で去年はエージシュートを4回達成しました。

今年はまだ1回だけど                    2019.08

健 康・・・・

何が嫌いかって、病院と医者と注射と薬が大嫌いで、この何年も掛かった事なし(小学校の2年生までは一年の半年は病人だったが3年生の夏に全身大火傷をして九死に一生を得てからは現在まで大病ナシで生きて来ました。
ナ訳で健康診断もやった事なし。
病院とか医者に掛かるくらいなら死んだほうがマシと真剣に思っている。

超頑固親父(中)と頑固親父(右)の(左) 

(看板の題字は超頑固親父が書きイチイの一枚板に彫刻)

写真↑は昭和20年正月(2月後の東京大空襲で祖父母は行方不明)です。
祖父 愛次郎  明治15年1月15日生まれ
祖母 マセ   明治18年9月15日生まれ
母   ヒサ  大正10年3月15日生まれ
本人      昭和16年7月15日生まれ 
何の因果か4人とも15日生まれです。
   
↑の古民家と祖父の先祖について重大な認識の違いを改めて知りました。
頑固親父の祖父愛次郎↑は小田原の旧家の次男でした。
又従兄弟の話しでは私共より5代前までの戸籍はハッキリ解っていてそれ以前は北条の残党と聞かされていました。
しかし昨年本家の菩提寺の住職が古文書を調べた結果 山田一族は北条が滅びた後に小田原城主になった大久保忠世が三河から連れて来た”家臣”だったそうです。
先祖が秀吉に滅ぼされた北条の生き残りと徳川家康の家来では大違いも甚だしいです。 それともう一つ
写真の旧家は祖父愛次郎が明治15年に生まれ育った江戸時代の家と思い込んでいました。
ところが曽祖父孝之助(嘉永4年生まれ・嘉永5年には浦賀にぺりーの黒船が来た)が他人の保証人のハンコをついて市街地に有った家屋敷を手放し明治30年頃現存地に移り 現地に建てた家だそうです。
と言う訳で↑の旧家は江戸時代の建物で無く明治に建てたものだそうです。
少しガッカリしましたがお蔭でルーツの再確認が出来ました。                           2018.03

ヘビィなスモーカーだった! 2004.04 最後の禁煙が続いているが・・・

18才で吸い始めたタバコが止められず自他共に認めるヘビィスモーカーだ!
今でも1日ピースを2箱半(凡そ50本)!
惨めなのは一本吸うたびに”止めよう!止めたい!”と思いながら・・・・・

*但し2004年4月に突然 人生 ン回目の禁煙に成功!
「最後の一本はもう吸った!」・・・・・・・・頑固親父の教訓その6
「今は吸わない・今だけは吸わない!」
・・・・頑固親父の教訓その7
この一念で3年過ぎました。
今度は今度こそは本物?                 2007.04

あれから10年今だ1本も吸っていません!         2014.04

あれから15年今だ1本も吸っていません!         2019.04

あれから20年今だ1本も吸っていません!         2024.04

下戸だった!      神は二物を与えず
頑固親父がこの世に生を受けて一番不公平なのは”下戸”だと言う事です。
古今東西太古の昔から人は酒とともに歩んで来ました。
それはとてつもない美味いモノらしいのです。

その味を知らずに生きているのです。

若い頃はその内人並みに飲めるようになると進められるママ飲む度にゲロゲロパーです。
若い頃は「酒も飲めねぇ奴に仕事が・・・・」と殺し文句を何度も聞かされました。

要するに”下戸”が判明したのです。要するに生まれつきの下戸だったのです。

ナ訳で酒そのものが美味くも楽しくも有りませんでした。

但し人生此処まで生きて来て自分の回りを見渡すと酒で人生を失敗した奴の方が多いです。
大酒飲みの父親の兄貴も実の弟も56歳で逝ってしまいました。

頑固親父に酒が飲めたら人生が100倍楽しめただろうと今でも思っています。
今でもコップに半分以上ビールを飲むと顔は真っ赤 心臓ドキドキ 頭がズキンズキンです。 それ以上飲むと地球が回り出し(船酔い状態)トイレに駆け込み上と下から・・・・です。

頑固親父は誰もが美味いと思う酒の味を知らずに人生を終えるのです。

但し美味いモノが並ぶ酒の席は大好きです。

奇麗なオネェチャン(オバサンでもイイ)が居ればもっと好きです。

囲碁・将棋・マージャン ・競馬・パチンコ・オネェチャン・人妻

・囲碁はパソコンで覚え、いまだに人と対戦したことナシ
・将棋は小学校3年生で覚えそれ以後上達ナシ
・マージャンは社会に出てから嵌り家一軒分は・・・・
・競馬はアカネテンリュウの頃嵌りハイセイコウで卒業しました
・パチンコはコンピューターになってから知りません!
・オネェチャンには何時も騙され通し(コンドと何時かって奴で)
・人妻は夢と小説の世界の話しですネ   これもホント!

パソコン 1995年~

パソコンはど素人(還暦を過ぎてからの挑戦はシンドイ!カタカナ語が覚えられない!)
しかしパソコンとホームページのお陰で全国に沢山の知人が出来ました。
2001年に夕日ヶ丘山荘のホームページをアップしました。
2002年に”頑固親父の薪ストーブ生活”のホームページを立ち上げ2004年に「天声薪語」をアップし”一日一言、一日一枚”を続けている・継続は最大の力なり!
(近頃は猫も馬鹿もブログとか言って始めるが毎日書かないブログなんて・・・・と思っている)                2007.04

家庭菜園 300坪開墾(開拓農民の苦しみが解かりました)2001~

2001年ハタケの師匠から独立して自前の農場で薪作りとハタケの為の1000坪をもちました。
毎年「ジャガイモ・ナス・トマト・きゅうり・枝豆・金時マメ・花マメ・インゲン・大根・タマネギ・かぶ・レタス・サラダ菜・スイカ・トウモロコシ・サツマイモ・ピーマン・ししとう・なんばん・にんじん・きゃべつ・はくさい・・・・」正直マキをやっている暇がなくなりました。
家庭菜園

1998年は炭焼きに挑戦 

薪のお陰で炭焼きに挑戦、これもやり出したら嵌りますが此のハタケ住宅地に開発されその後焼く機会がありません。
1999年は家庭菜園の師匠黒田さんと炭焼きに明け暮れました。

この年の12月に母親が脳梗塞の挙句旅立ちました。

家庭菜園の師匠と炭焼き

2000年は手打ち蕎麦に嵌る

札幌手打ち蕎麦愛好会顧問 小幡栄氏が経営する店に押しかけ極意を盗み、苦節3年 (2002.10)全麺協の認定試験「初段」に合格する事が出来た。
蕎麦打ちは奥の深い「日本の文化」だと痛感した。
(手打ち蕎麦に興味のある方は「頑固親父の手打ち蕎麦」へどうぞ)

 

おかげで毎年年末には50箱(200人前)配っています。
12月になるとアチコチから送り物が届くので・・・・ 2017.12

頑固親父の「つぶやき 2」            2002.06

薪ストーブの「暖かさ優しさ」に魅せられてのめり込みましたが、金を掛けずに「知恵と汗」で楽しい世界が無限に待っていました。
業者の言いなりにならず何とか工夫して上手く出来た時の満足感、山から薪を運び出す時の格闘でチエンソーも重機も無い時代の先人たちのご苦労を知る事が出来ました。
たかが薪ストーブですがこの年令になって実に多くの事を学びました。
木よマキよ薪ストーブよ「ありがとう」       02.06.16

頑固親父の「つぶやき 3」             2003.01

薪ストーブのホームページを立ち上げて半年が過ぎました、日本中に沢山の愛好家が居る事を知りました。
皆さん薪ストーブが好きで好きでたまらない方達です。
でもその多くの方は30代40代です、私の年代は殆ど居ません、実に不思議な事です。 高気密住宅に外気導入式の外国製の高級品の薪ストーブを設置しそれを自慢し合う姿にいささか戸惑っています。 私は人生を走りぬいて悠悠自適、晴耕雨読が夢でしたのでやれやれと思った時に出会った薪ストーブでした ちょっと違う世界に飛び込んでしまったような気がしてなりません。                            2003.01.19

2009年9月 夕日ヶ丘山荘閉館

夕日ヶ丘山荘をオープンして6年目頃から家内の喘息が始りました。
ワタシテキには年々酷くなる家内を見るに忍びなく医者にも山荘を取るか?命を取るか?二者選択を迫られ閉館(暫く休業し入院治療に専念)を決断しました。 入居者の家族宅を尋ね夫々に事情を説明して本人と家族の了解を得る事が出来ました。
命を預かる山荘のお陰で緊張の 11年でしたがお陰でマスコミにも取り上げて頂き感謝の気持ちで一杯です。
空から見れば自分の親を世話するだけが親孝行でなく他人様の親をお世話して暮す事だって同じ“親孝行”って事です。
2009年9月に最後の入居者を涙涙で見送りました。   (2009.09)

頑固親父の自己紹介 中編はこちら   頑固親父の自己紹介 後編はこちら

 

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