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昭和20年3月10日の東京大空襲で(現在の江東区東砂町で)戦火の中母親と二人奇跡的に生き延びる、私4才母親24才(昔の女はスゴイ)この日に人生の全ての「運」を使い果たしその後の人生で一度も「運」に恵まれた事が無い!
オット失礼↑の方(頑固親父のイイナリ女房)と巡り会えた事は何よりの”運”でした。ナ訳で生涯’妻’はこの方一人に決めてます。
昭和39年(東京オリンピックの年)東京新宿の某三流大学の建築学科卒業後、超頑固親父の命令で
『若い時の苦労は銭出して買ってでもスレ!』
『若い時にゃぁ他人の飯を食え!』と 忍耐を学ぶ為に北海道に渡り室蘭市の造船会社で3年間修行中(!)に↑の方に巡り遭いました。
(実は私の身内の殆どは室蘭で”出来た”って思い込んでますがトンデモハップンです・内気な青年は片思いのまま帰るには後悔すると決心し、室蘭から東京に戻る際に悩んだ結果「何時か必ず迎えに来るから!」って思い切って言って見たがケンモホロロに断られました・アントキはホント落ち込んだ・青函連絡船から飛び込んじゃおうかと真剣に思いました・当時流行っていた”霧の摩周湖”を聞くと昨日のように思い出されます)
東京に戻ってからも忘れられず毎日毎日手紙を書いて親友(人名録参照)の力を借りてようやく「ン!」って言わせました。
だから結婚式まで指一本触ってません!これほんとインデアン嘘ツカナイ! 今頃になって修行の大切さをシミジミ感じています。
修行とは女房を見つける事なり・・・・頑固親父の一言
実は家内の母親はソレハソレは働き者で寮母として3年間世話になりました。
その娘ならキット働き者で私は絶対に幸せに成れるって思って居る内にホントに惚れてしまいました・・・・片思いだけど!
家内の母親については天声薪語2009.3.5〜6に・・・・ヨメを貰うならオヤ見て貰えって!昔の方はイイ事言いますねぇ!
(美人は三日で飽きるがブスは三日で馴れるって!言う格言もあるが結婚以来一度もそのように思った事等ありません・これもホント)
妻(頑固親父のイイナリ女房)と犬4匹(キャバリア夫妻とヨークシャテリア夫妻)と
自宅向かいにある高齢者共同住宅〜夕日ヶ丘山荘〜の10人のお年寄りたち
左からワルコ・ズルケン・チビメル・バカアレ
マキ......これで(1u)3日分
二人の息子は(天声薪語過去ログ2009.08.23と09.06の如く育てたので)自立して、秋田と東京で生活しているがほとんど音信不通。
便りのないのは元気な証というけれど モノには限度ってものが・・・・・・
まあいいか、ガマン、ガマン↓が居るじゃんか!
(4人の写真で家内の後ろに立っているのが”ヨメを貰うなら・・・・の働き者のハハオヤ”です)
北海道で3年の修行を終え、実家(東京下町で80年続く)の鉄工所の3代目の筈が、両親と折り合わずたった7年で見切りをつけて、昭和49年に妻と5歳の長男を連れて札幌市に移り住み何時かはまたと思っているうちに還暦を超えてしまった。
85才になる父親は現在でも社長を私の弟に譲らず、「頑固一徹」現役でピンピンしている。もしかしたら「私は最高の親孝行息子?」ではと思う事がある(02.06)
現在は〜夕日ヶ丘山荘〜のオーナーとして、高齢化社会に少しでもお役に立て、夫婦二人で生きがいを持って生活できる事に充分満足している。
ところが平成17年の元旦に三代目を任せた筈の弟(56歳で)が急逝してしまいました。
平成19年の5月に突然超頑固親父から呼び出しが掛かり株主総会の議決を得て急遽3代目を任されました。
『売り家と唐様で書く三代目』 超頑固親父92歳私68歳です。
ケド『三代続けば末代続く』とも言われています。 あぁ〜〜あ!
人の運命ってのは絵に描くようには行かないものですネ
収入はネンキンでイワユル『サンデー毎日・国家公務員』って奴です
春:薪作りと山菜採り
夏:ハタケ(300坪)とCCと阪神タイガース
秋:薪作りとキノコ採り
冬:二台の薪ストーブの係長(24時間勤務)
ってバカな事を言ってますがこれでも一応三つの会社のシャッチョゥさんです
(天声薪語07.07.26参照)
一時期ゴルフに才能の限界を感じ、草野球に没頭した時もあったが、毎年欠かさないのがバンコックのゴルフツアーです。
此の歳になっても誘ってくれる仲間が有るってのが一番です。勿論ニギリの世界もです。
68歳にしては・・・・・・・って褒められるのです↑。
タイはキャディーが何と言っても可愛いです。所謂カッパエビセンって奴で、日本国内でキャディと→のような写真を撮ったら出入り禁止・除名・セクハラ・・・です。
実はゴルフより・・・・嘘です。 それにしても美しいスイングですね・冗談抜きで・・・
何が嫌いかって、病院と医者と注射と薬が大嫌いで、この何年も掛かった事なし(小学校の2年生までは一年の半年は病人だったが3年生の夏に全身大火傷をして九死に一生を得てからは現在まで大病ナシで生きて来ました。
ナ訳で健康診断もやった事なし。
病院とか医者に掛かるくらいなら死んだほうがマシと真剣に思っている。
超頑固親父(中)と頑固親父(右)の弟(左) (看板の題字は超頑固親父が書きイチイの一枚板に彫刻)
写真左は昭和20年正月(2月後の東京大空襲で祖父母は行方不明)です。
祖父 愛次郎 明治15年1月15日生まれ
祖母 マセ 明治18年9月15日生まれ
母 ヒサ 大正10年3月15日生まれ
本人 昭和16年7月15日生まれ 何の因果か4人とも15日生まれです。
・囲碁はパソコンで覚え、いまだに人と対戦したことナシ
・将棋は小学校3年生で覚えそれ以後上達ナシ
・マージャンは社会に出てから嵌り家一軒分は・・・・
・競馬はアカネテンリュウの頃嵌りハイセイコウで卒業しました
・パチンコはコンピューターになってから知りません!
・オネェチャンには何時も騙され通し(コンドと何時かって奴で)
・人妻は夢と小説の世界の話しですネ
ど素人(還暦を過ぎてからの挑戦はシンドイ!カタカナ語が覚えられない!)
しかしパソコンとホームページのお陰で全国に沢山の知人が出来ました。
2002年に”頑固親父の薪ストーブ生活”のホームページを立ち上げ2004年に「天声薪語」をアップし”一日一言、一日一枚”を続けている・継続は最大の力なり!
(近頃は猫も馬鹿もブログとか言って始めるが毎日書かないブログなんて・・・・と思っている)
毎年「ジャガイモ・ナス・トマト・きゅうり・枝豆・金時マメ・花マメ・インゲン・大根・タマネギ・かぶ・レタス・サラダ菜・スイカ・トウモロコシ・サツマイモ・ピーマン・ししとう・なんばん・にんじん・きゃべつ・はくさい・・・・」正直マキをやっている暇がなくなりました。
札幌手打ち蕎麦愛好会顧問 小幡栄氏が経営する店に押しかけ極意を盗み、苦節3年 (02.10)全麺協の認定試験「初段」に合格する事が出来た。
蕎麦打ちは奥の深い「日本の文化」だと痛感した。
(手打ち蕎麦に興味のある方は「頑固親父の手打ち蕎麦」へどうぞ)
薪ストーブの「暖かさ優しさ」に魅せられてのめり込みましたが、金を掛けずに「知恵と汗」で楽しい世界が無限に待っていました。業者の言いなりにならず何とか工夫して上手く出来た時の満足感、山から薪を運び出す時の格闘でチエンソーも重機も無い時代の先人たちのご苦労を知る事が出来ました。たかが薪ストーブですがこの年令になって実に多くの事を学びました。木よマキよ薪ストーブよ「ありがとう」02.06.16
薪ストーブのホームページを立ち上げて半年が過ぎました、日本中に沢山の愛好家が居る事を知りました。皆さん薪ストーブが好きで好きでたまらない方達です。でもその多くの方は30代40代です、私の年代は殆ど居ません、実に不思議な事です。高気密住宅に外気導入式の外国製の高級品の薪ストーブを設置しそれを自慢し合う姿にいささか戸惑っています。私は人生を走りぬいて悠悠自適、晴耕雨読が夢でしたのでやれやれと思った時に出会った薪ストーブでした。ちょっと違う世界に飛び込んでしまったような気がしてなりません。 03.01.19
夕日ヶ丘山荘をオープンして6年目頃から家内の喘息が始りました。
ワタシテキには年々酷くなる家内を見るに忍びなく医者にも山荘を取るか?命を取るか?二者選択を迫られ閉館(暫く休業し入院治療に専念)を決断しました。
入居者の家族宅を尋ね夫々に事情を説明して本人と家族の了解を得る事が出来ました。
命を預かる山荘のお陰で緊張の 11年でしたがお陰でマスコミにも取り上げて頂き感謝の気持ちで一杯です。
空から見れば自分の親を世話するだけが親孝行でなく他人様の親をお世話して暮す事だって同じ“親孝行”って事です。
2009年9月に最後の入居者を涙涙で見送りました。(2009.09)
山荘を閉館した頃二番目の息子が家内を元気つけるイイ話を持って来ました。
翌春に漸く世帯を持ってくれました。
息子の結婚式のお陰で疎遠になっていた長男にも再会出来ました。
嬉しかったのは"二人の孫"に会えた事です。
孫に「おじぃちゃん!こんにちは!!」って言われた瞬間に全ての思いがすっ飛んでしまいました。
元気な二人の孫を産んで育ててくれた長男の家内にタダタダ感謝です。
入院中の超頑固親父も出席して二代目から五代目まで揃いました。何はともあれ我が家にもようやく春が来ました。
春だけでなく孫まで付いて来ました。目出度し目出度しです。 (2010.03)
2007.05に実家の会社を引き受けて代表取締役になってからは超頑固親父の兄一族と工場跡地の奪い合いに巻き込まれました(4度の裁判まで起こされて)(それまでは工場跡地を駐車場として収益を得て超頑固親父と番頭で山分けしてました・しかし妹達が気付いた時には番頭にシコタマ使い込まれ跡地まで売却される寸前でした)
デ私が考えたのが更地だから土地の奪い合いになるので有効利用を1年半に渡って検討の結果、解体してスーパーマーケットを作る事になりました。
何が大変かと言うと超頑固親父を説得するのが一番大変な作業でした。
超頑固親父には自らが50年前に作った工場が解体される現場を見せる事は出来ませんでした。(2010.04)
秋田から長男の家族も上京して新たな出発です。
二代目から5代目まで揃いました。
年内には完成オープンの予定なので竣工式もこのメンバーで迎えたいものです。(2010.05)
山荘を閉館しても家内の喘息は治まらず一年近く経った2010年7月に"再開"をする気力体力が芽生えず不動産屋に相談の結果売却を決意しました。
閉館以来自宅の目の前にある建物を毎日見て暮らす辛さは当人しか解らないものです。
自分で建てて自分で解体など・・・・誰か引き継いで下さる方をネットで募集したが皆さん帯に短し襷に長しで結局不動産屋さんが買い取ってくれる事になりました。
現在は不動産屋さんの紹介で新しい事業主が同じ夕日ヶ丘山荘って名前で賃貸し同じ事を再開して漸く満室になったようです。(2010.09)
工 場跡地にスーパーマーケットが予定通り開店しました。 残念ながら超頑固親父は竣工式、開店のセレモニーには体調不良で出席出来ませんでした。
時を同じくして超頑固親父の兄一族から株式の買取交渉も妥結し全てが超頑固親父一族のものになりました。
二階には当社の事務所も作り此処に会社が今でも存在する証を残しました。
ついでに超頑固親父の胸像も作り生きている内に当人に見て貰いました。
当人は照れくさそうで「ついでにお前のも作ったらどうだ!」ダト
何はともあれ目出度し目出度しです。 (2010.10)
超頑固親父の兄一族に株式の代金を送金して「やれやれ!之でオレの役目も90%終わった!」と思いベトナムにゴルフに行きました。
帰国後風邪を引きその後胃がやたらムカムカするので近所の病院で生まれて初めて"胃カメラ"の検査を受けました。
2011.02.28突然"ガン宣告"を受けました。
「えっ・オレがガン?嘘だろう!悪い夢だろう!」って心底思いました。
神の書く人生のシナリオの凄さにただただ脱帽です。
ガン宣告を受けた翌朝に超頑固親父が昇天し(世間ではこのような事をフンダリケッタリと言います)ガンの入院手術は後回しにして取り合えず葬式の為に上京しました。
体調不良の中密葬を何とか済ませそのまま東京の「国立がん研究センター中央病院」で開腹手術を行いました。
現在術後の転移予防の為の抗がん剤服用で日々無気力な日を送ってます。
皆さんにお知らせ!
ある日突然ガン宣告を受けたら国立がん研究センター中央病院18Fです。
何が素晴らしいって看護婦さんに決まってますデス (2011.03)
ガン宣告を受けた翌々日に札幌市の病院に入院の予定が翌朝に超頑固親父が息を
引き取ったとの事で 入院を先送りして取り敢えず上京して密葬の儀を行いました。
当人の意向で自宅(8畳と6畳)に30人も入り大変窮屈なお葬式でした。
密葬なのにタイからはマノーさんまで来て下さいました。
通夜告別式と何も食えずそれはそれは辛いものでした。
超頑固親父の昇天は「何時逝っても・・・」と一年前から医者に言われていたので
覚悟は出来てたので 別段同様も悲しみもありませんでした。
東京に負けて親子三人で北海道に移り住んだ時からの重荷がようやく降りた
思いでした。 (この気持ちだけは誰にも理解出来ないと思います)
勝ったとか負けたとかの次元でなく親子の壮絶なドラマだったのです。
人間ってのは難しい事は抜きにして「命を繋ぐ」 事だったのです。
昭和20年3月10日に行方不明になった祖父母が私を生かせてくれたのです。
そのお陰で五代目まで繋がったのです。
神の書くシナリオの凄さにただただ驚きです。
私がガンの宣告を受ける前後から不思議な事に家内の喘息止まりました。
何時再発するか針のムシロですが何故か止まってます。
原因が解らないので"難病"なのでしょうネこれも神の書くシナリオなのでしょうか?
夕日ヶ丘山荘開園と同時に始めたハタケですが抗がん剤の副作用で今年に限り
ハタケは中止する事にしました。
皆さんは健康の為にハタケだけはと言いますが当人にはその気力がありません。
気力あるのは去年集めた原木の処理です。
去年集めた原木は生きてる間に"焚いて"あの世に行きたいと願ってます。
● 超頑固親父のお別れ会 挙行
3月1日に亡くなった父の「お別れの会」の挙行でした。
東京駅々前のお堀端の「東京會舘・9階ローズルーム」で行いました。
父の生前の付き合いのある方は殆ど他界してしまい果たして何名の方が来て下さるのか皆目見当も付かず不安な催
しでしたが上は国会議員の先生から都議会議員及び江東区長と区議会議員まで来て頂き凡そ200名の方が出席で
思いの外立派な「お別れの会」を出来ました。
息子として由緒有る「東京會舘」で父の見送る会を出来た事が何より一族としての誇りでもあります。
実は写真をよ〜く見て頂くとバックに"掛け軸"が見えます。
書道が趣味の父が生前に自分が書いた気に入った書を表装して巻物にした「掛け軸」が押入れの中にン百本も眠っ
ているので この際に参加された方に宜しかったらお持ち帰り頂く事を思いつきました。
表装代も凡そ3〜5万程度掛かってる筈ですが身内としては"ネコに小判"でやがてはゴミとして処分する以外になさそ
うなので この際展示した次第です。
皆さんの反応が心配でしたが展示した全てをお持ち帰り頂きホットした次第です。
何よりも父が一番喜んでいると思います。
掛け軸をお持ち帰り頂き「親孝行」をした思いです。
↓の動画は父の略歴紹介です。